その2) ばぁちゃん





優しかった ばぁちゃん。
家族思いの ばぁちゃん。

俺は ばぁちゃん子だった。

ばぁちゃんは 大正生まれで
字は書けない人だった。

ばぁちゃんが 文章どころか
自分の名前を 書いているところですら 俺は見たことがない。

この時期の女性は あまり教育を受けれなかったんだろうなと
子供ながらに思った。


しかし 裁縫はすごかったのを 覚えている。
なんせ 着物の裁縫の先生をやっていた。



俺は裁縫が あんま得意じゃなく
家庭科の時間 雑巾を縫ったのだが

引きつって 原型をとどめていない
その布のかたまりに
俺自身もびびった・・。


それ以来 ばぁちゃんの裁縫技術は すごいんだってことに 気付いた。

戦中 八王子に疎開してきて
じいちゃんと出会ったんだそうだ。

第二次世界大戦がなかったら
俺はここにいないんだなと思った。

それから 苦労して
この家を建てたんだと
よく ばぁちゃんの口から耳にしたものだ。


ばぁちゃんは仕事人間で
常に苦労して生きてきた人間であったため
あまり 遊びをしない人であった。

そのため 趣味や道楽はなく
朝から晩まで なにかしら
せわしく 家事などして 動いていたのを
俺は覚えている。

そんなわけで ばぁちゃんは 徐々にだが
耳が遠くなり ボケてしまった。

老年期に起こる 痴呆症である。


最初は 単純に物忘れであった。


しかし 徐々に エスカレートしていった。

補聴器を与えたのだが そんなもんはいらんと言って
つけてくれなかった。


電話に出ると 少々 お待ちくださいと言って
そのまま どっかへ行ってしまう。

俺のダチはこれで 20分待ったそうだ。

電話は もう出れなくなってしまっていた。
出ても受話器を置いて どこかへ行ってしまうからだ。

そして ご飯作りも もう危険であった。

味噌汁など 家族のためにつくるのだが
火をかけてるのを 忘れて どこかへ行ってしまう。

味噌汁は蒸発し 鍋に炭がこびりつく
こんなことが 幾度となく 繰り返された。

風呂も空焚きしてしまうことがあった。

時間感覚はなくなり
昼の3時に戸締りしてしまい
帰宅した兄弟全員で ばぁちゃん 開けてくれ〜〜
なんてこともあった。

幸い 両親は鍵を持っていたので 問題なかったのだが。

家から よく夜中に出歩いてしまうことも 多くなった。
そんなときは 家族全員総出で捜索に行った。


俺が近所の神社で発見し
ばぁちゃん なにやってんだよ?
と 訊ねると

「お前を探しにいってたんだよ!!

と 逆に説教されたこともある。


一度 遠出してしまい
警察に保護されて 帰ってきたこともある。

そのときは 警察を指さして

「この人んち 行ってた」

などと わけのわからないことを言っていた。

そのうち 母も心労が激しくなり
家族会議となった。

議題は ばぁちゃんを 施設にポイするか
このまま 家族で面倒みていくかである。

我が家の出した結論



なにしろ ばぁちゃんは じいちゃんの死後
熱心に じいさんと建てた この家を守り
家族のために献身的に 身を削って生きてきた人だ。

そんな人を軽々しく
ボケたから あと 頼むわってことで
簡単に 施設に預けて ポイしていいのか??

家族にとって 大きな負担にはなるが
それ以上に 彼女は我々家族に対して
様々な恩恵を与えてきた。

よって このまま 家族で継続して面倒みていくことになった。


そのため 彼女の世話をほぼ
おかん一人でやってきたのだが
分担してやることになった。

俺は ばぁちゃんの おむつを変えたり
老人養護施設で行われる 歌や絵などの習い事の送り迎えなどを
担当した。

おむつをかえるときほど 悲しいときはなかった。
昔は 俺がこうして とりかえてもらっていたからだ。
どうにもこうにも やりきれなかった。

仕舞いには 俺の名前も忘れてしまい。

「どこの子だい?今日はもう遅いから 泊まっていきなさい。」


え?? うちの子なんですが?・・


俺はそんな変わり果てた ばぁちゃんを 見るのがとてもつらくて
涙があふれてしまったことを覚えている。

名前を呼んでも おとんの名前だったりした。

ばぁちゃんの目が充血してしまったとき
おかんが目薬さしてあげてねと 言っていたので

目薬を テーブルの上に置いて
俺は飯を食いながら TVを眺めていた。








チュウ チュウ チュウ チュウ





何の音だ?

目の前を見ると

ばぁちゃんが 目薬を吸っているではないか!!

ぬおぉおお 俺は慌てて止めた。

ばぁちゃんと食事すると
そんな瞬間がよくあった。
入れ歯を舐めているときも あった。

その度に目を離しちゃいけないなと
自分に言い聞かせたものだ。



しかし そんな ばぁちゃんも
  昔のことは よく覚えていて
色々な体験談や苦労話を 楽しそうに話してくれる。

この時間が俺は 一番好きだった。

その話の中にでてくる ばぁちゃんは
輝いていて 眩しかった。


こんなに強くたくましく 生きてきた日本人女性。
戦中戦後は実際 どんな地獄だったのか
俺はこの人と 一緒にいる時間のおかげで
たくさん 学びとることができた。
女の意地 そして生き様を見させてもらった。













そして 6月3日 それは起こった・・・・。




この日 俺は実家にいなかった。
友達に仕事の依頼を受けて
都内まで出かけてしまっていた。


夜9時ごろだったろうか
家からの最寄の駅に到着。

駅のホームを降りたら
なんか 駅近くの道路は
たくさんのパトカーのパトランプで
真っ赤に彩られていた。


なんか事故かな??

中央分離帯に車が乗り上げて
黄色い信号機に突っ込んでいた。

どやったら あそこに突っ込むんだ?
飲酒か よそ見運転だろうなと思い
家に帰宅した。

駅前でなんか事故あったみたいだぜ。
と 帰宅際に俺が喋ると

家族は皆 しかと。


なんか空気が慌しい。
なにかあったの??

ばぁちゃんが そういえばいない。


誰も口を開かなかった。 電話が鳴り 母が出た。
どうやら 警察に捜索願いを出し
それを待っていたようだ。

身元がわからないのだが
老人女性の死体が ○○病院のほうへ移送されたと報告を受けた。

ばぁちゃんじゃないことを 誰もが祈ったのだが
警察の言う 老人の服装は明らかに
今日のばぁちゃんの服装であった。



皆 車に駆け込み 病院へ向かう。
俺は まさか 実家でこんなことになっているとは
予想もしていなかった。



そして 霊安室へ
始めに父がその白い布をめくり










「確かに母です・・・」

と 警察に報告した。


俺は目からドッと 洪水のように涙があふれてくるのを感じた。


嘘だろ・・・。

交通事故だった。
赤信号を渡ってしまったのだろうか?
実際 ばぁちゃんの歩みは遅く 青で渡っても途中で 赤になってしまう。



額やらが ひどく えぐれてしまっていた・・
女性の顔にこの傷はむごすぎるぜ・・・



なんでも 車との接触でまず 一時衝撃

そして ボンネットに乗り上げ
車がなにかに突っ込んで 止まった際に
アスファルト上に すっ飛び 地面に叩きつけられ
二次衝撃。

即死だったらしい

肺はひしゃげて ペシャンコだった。

そして 事故現場は 俺が駅を降りたときに見た その場所であった・・・





なんで こんなに頑張って生きてきた人の最後が
こんなんなんだ??






なんでだよ??
なんで こんな死に方なんだよ?!






納得いかねぇよっ!!

納得いかねぇよっ!!








神も仏もクソくらえだぜっ!!




彼女の死を もう つべこべ言っても仕方がない。
もう それは 起こってしまったのだ。

家族の誰もが
おとなしく 施設に入れておけば死なずに済んだかも知れない
と 思う悲しい瞬間があった。

家族の一人一人が ばぁちゃんの死は自分のせいであると
自問自答した瞬間がそこにあった。








自宅で最後を迎えさせてやりたかった。

何しろ ばぁちゃんにとって じいちゃんや家族との
思い出が一杯つまった場所だから・・・。













たくさんの思い出をありがとう ばぁちゃん

俺は今でも あなたを心底 尊敬し 愛しています。






華を咲かそう